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結転院時の看護師付き添いの事例

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1.奥さまへの手紙

拝啓 奥さま

東京では例年になく寒い日々が続いておりますが、
温暖な土地でご家族とともに穏やかにお過ごしでしょうか。

早いもので、春にご主人の転院のときに、
沖縄まで付き添いをさせていただいてから、もう半年以上が過ぎました。

新しい生活環境にはもう慣れましたか?

そちらは奥さまとご主人がともに生まれ育った街ですから、
周りにご両親やご兄弟、お知り合いも多いことでしょう。
何か困ったことがあっても、助けてもらえる人達が近くにいるというのは
きっと心強いことだろうと思います。

それにしても、
東京から沖縄まで2泊3日の船旅は本当に大変でしたね。
私たち看護師にとっても、
船内という特殊な環境で行なうケアは、なかなか経験できるものではなく
常に緊張しっぱなしの3日間でした。

長い船旅の最中には、奥さまとゆっくりとお話する時間もありましたね。
デッキチェアに二人で並んで座って太海原を眺めながら、
ご主人と20年間お過ごしになった東京でのことや、
これからへの不安と、故郷へ戻る安堵感を、
同時に口にされていた奥さまのことを今でも時々思い出しています。

2.船内ケアへの準備

「船で3日間」
改めて奥さまとのご相談記録を読み返してみると、
上の部分が強調するように赤ペンで丸く囲まれています。

今だから正直に言えることですが、
最初に重症患者を船で長距離搬送すると聞いたときは、
私たち看護師でも少なからず不安になりました。

ご主人は肺や頭蓋の手術を受けておられ、
気圧変化の影響で状態が悪化する危険性がありました。
そのために医師から飛行機の搭乗を禁止されていました。

私たちはこれまでにも飛行機や新幹線の付き添いは数多く行なっていましたが、
船内で、しかも2泊3日もかかる長距離搬送、というのは今まで経験がありませんでした。

これまで経験したことのないケア環境で、
どのような医療的な危険性が生じうるのかイメージが出来ない。
患者様の生命・健康を預かる医療従事者として、怖さを感じていました。

ですから、準備には充分な時間をかけました。

乗船予定のフェリーが転院の5日前に東京に入港すると聞き、
フェリー会社に連絡を取って下見の許可を取り付けました。

そしてフェリー会社の担当者に船内を案内してもらいながら、
いろいろな点を確認して回ったのでした。

Q.ストレッチャーに寝たままの患者はどの入り口から乗船できるのか?
A.一般乗客用のタラップは揺れて危険なので、コンテナや車を積み込む入り口から乗船する。

Q.ストレッチャーが通れる広さの通路はあるのか?
A.狭いがストレッチャーが通るくらいの通路はある。移動距離が短くなるよう、入り口から近い部屋を手配した。

Q.重くてかさばる点滴台は持ち込めない。他の手段で客室内に点滴パックを吊るすことができるか?
A.宿泊予定の客室で点滴パックが吊るせるフックがあることを確認。
フックからベッドへの距離が若干遠いので、点滴の管は長めのものを準備する。

Q.医療機器用の電源が確保できるか?
A.客室内に電源あり。吸引器と携帯用酸素吸入器の使用が可能。

Q.酸素ボンベの船内への持み込みは可能か?
A.フェリー会社担当者が持ち帰って法律上の安全基準について確認。
確認までに数日を要したが、酸素ボンベ持込みは可能だ、という回答を得た。


実際に船内の様子を目で見ることができたことで、
当日の動線や、想定されるリスクを把握することができました。

下見の最後には船長にもお会いできました。
船長は、親身になってこちらのお話を聞いてくださいましたが、
「万が一、体調が悪くなったときには引き返せますか?」
と質問した際には、
「仮にそうなっても、当船は一度出港したら引き返すことはできません。
他の乗客や貨物も載せているので、一人の乗客のために運行スケジュールを変更することはできないのです。その点を了解していただくことを条件に乗船を許可します。」
とハッキリとおっしゃいました。

また、航路の8割は携帯電話が通じない海域だということも知り、
緊急の場合でも、速やかに医師との連絡が取れない事態も考えられました。

「何があっても、航行中のご主人の安全や健康は私たちが守るしかないのだ」
と、私たちは腹をくくりました。

3.ゆれる船内での看護

当日の船の出港時刻は午後の5時でした。

入院していた病院から民間救急車でご主人を搬送し、
出港時刻の1時間前には夕焼けで染まる有明港に到着。
フェリー会社の計らいで、ターミナルビルで待機することなく、
すぐに乗船することができました。

ご夫婦のお部屋は3階のツインベッドの2等客室で、
ケアをするのに充分な広さがありました。

縦長の大きなはめ込み窓からは海が臨め、備え付けのテレビもあって、
奥さまは「思ったよりも快適に過ごせそうだわ」とおっしゃっていました。

しかし実際には、快適とは程遠い船旅になりました。

有明港を出て浦賀水道を抜けるまでは鏡のような静かな海面が続いていました。
ところが、東京湾を出たころから船は太平洋の大きなうねりを受けて、
まともに立っていられないほど、右に左に揺れ始めました。

私たちはご主人がベッドから転落しないように、
体を壁際に寄せ、クッションなどで体を固定しました。

最も心配だったのは嘔吐物による窒息事故でした。
私たちは小さな状態の変化も見落とさないように、
四六時中、ご主人から目を離すことができませんでした。

ご主人は脳に受けた損傷のため、
普段は寝ているのか、起きているのか分からない意識状態でした。
ところが船のゆれに本能的な不安を感じたのか、
しばしば目を開けては、きょろきょろと周りを見回していました。

奥さまがご主人を安心させようと、10歳の息子さんの写真をお見せすると、
(恐らく認識能力は失われているはずなのですが)
その写真をじぃっーと凝視されていたのが印象的でした。

私たちは、ケア中は緊張感がありましたので
不思議と船酔いは感じませんでした。
しかし、交互に休憩を取ってケアを離れると、
思い出したかのように胃の不快感や頭痛が襲ってきて、
なかなか寝つくことができませんでした。

4.ご主人との思い出話

私たちは荒れた海の中を3日間も船内に缶詰になっていました。
奥さまも私たちも、肉体的にも精神的にも疲労していましたが、
食事の時間だけは束の間の休憩を取ることができました。

奥さまにはいろいろお気遣いをいただいて、
船のプロムナードで休憩中の私たちに、
おにぎりやアイスクリームを差し入れて下さいました。

そして奥さまも私たちと一緒の席に着くと、
ご主人との思い出を懐かしそうに語ってくれました。

<出会い>
お二人は沖縄で生まれ、沖縄で育ちました。
地元大学に進学した二人はサークル活動で知り合って
お付き合いに発展しました。
美男子ではなかったけど、まじめで将来の夢を真剣に語る彼に惹かれたのだそうです。

<彼の東京転勤と遠距離恋愛>
卒業後は二人とも地元で就職しました。

ところが1年も経たないうちに、彼の東京転勤の話が持ち上がりました。

彼は都会で挑戦したい、という気持ちと、
彼女とは離れたくない、という気持ちの狭間で悩みました。

そんな彼の姿を見て、彼女は交際が終ってしまうかもしれないことを覚悟で、
迷っている彼の背中を押してあげたのだそうです。
「あなたは東京に行きたいんでしょう?
あなたが行きたいのなら、私はそれでいいから。」

遠距離恋愛をすることになった二人は、
毎月の携帯電話の通話料金が5万円を越えてしまうほど
毎晩のように深夜まで語り合いました。
「私はいつまでも話していたかったのに、
あの人ったら、途中で眠くなって寝言を言ったこともあったのよ。(笑)」

そして一年後、久しぶりに帰省した彼は彼女にプロポーズをしました。
東京と沖縄という距離の壁を乗り越えて、お二人は晴れて夫婦となったのでした。

<二人の東京暮らし>
奥さまはご主人に付いて上京し、若い二人の東京暮らしが始まりました。

のんびりした地方の街で育ったお二人は、
最初のころは、都会の慌しい生活になかなか馴染めませんでした。
身近には誰一人として親戚や知人がいなくて、
お互いを頼りに励まし合って生きていたのだそうです。

奥さまは、ご主人の東京勤務はせいぜい2~3年だと思っていたそうですが、
5年経って、10年が過ぎても沖縄に戻るという話は出ませんでした。

「東京で頑張ってもっと給料を貰えるようになったら、今より広い部屋に引っ越そうね」
いつしか、それが二人の共通の目標になっていました。

やがてご主人も仕事で実績を残せるようになり、
一つのチームを任され何名かの部下を持てるようになりました。

そして、夫婦の共同名義で都内の中古マンションを買いました。

<奥さまの夢・犬を飼う>
自由にペットが飼える家に住めるようになった奥さまは、
子供のころからの憧れであった
「犬を飼いたいの」とご主人にお願いをしました。

ご主人はあまり前向きではありませんでした。
いつも「こいつの(犬)散歩が大変だ」とか「トイレ処理が嫌だ」だとか、
ブツブツと文句を言いながら犬の世話をしていたそうです。

また、奥さまは夜はベッドで犬と添い寝をしたいと言ったのですが、
ご主人は「汚いから駄目」と絶対に許してくれませんでした。

とうとうある晩、奥さまは隣でご主人が寝入ったころを見計らって、
そっと犬をベッドに上げてしまいました。

トイレに行くため夜中に起きたご主人は、
ちゃっかりと奥さまの隣で丸まって眠っている犬を見つけました。
奥さまが薄目を開けて「さあ、どうするのかな」と見ていると、
ご主人はしばらく犬と奥さまを眺めていた後に、
黙って犬の頭を軽く撫でると、
何事もなかったかのように毛布を被って寝てしまったのだそうです。

ご主人は口にこそ出さなかったものの、
心の中では、奥さまの夢を叶えてあげられたことに誇りを感じていたのでしょう。

<出産・育児>
お二人が35歳を過ぎてから、やっと子供が出来ました。

生まれた赤ちゃんはご主人に瓜二つでした。
顔かたちから太い眉毛や髪の生え癖もご主人そのもの。
大きくなってからは、しゃくり上げるように笑う癖まで似てきました。
「私がお腹を痛めて産んだのに、まるであなたが産んだ子みたいね。」
と少し恨めしげな奥さまを横目に、ご主人はご満悦だったそうです。

毎朝、息子さんを保育園に送るのはご主人の役目でした。
自転車の後部シートに乗せた息子さんに、
「今日は何して遊ぶの?レゴブロック?ミニカー?ヒーローごっこ?」
などと声をかけ、子供と二人だけの会話ができるひと時をご主人は楽しんでいたそうです。

子供が熱を出したときは、会社に休みを取って家で看病をしてくれたそうです。
「今の時代、男も育児を手伝うのは当然だよ。お前だって働いているのだし」

5.これからへの不安と故郷へ戻る安堵感

そんなご主人が突然交通事故に会い、回復不能の重症を負ってしまったのです。
バレンタインデーのプレゼントを買って帰宅する途中の出来事だったそうです。

脳損傷の後遺症で全身が麻痺し寝たきりになりました。
ものの認識や判断、他人とのコミュニケーション能力も損なわれて、
奥さまの話しかけにも明確な反応が返ってくることはありません・・・。

「事故後は生活が180度変わってしまったの。」
「あんな風になっちゃって・・・」
そう言うと、奥さまは人目をはばからず声を上げて泣き出しました。

私たちにはかけてあげる言葉が見つからず、
ただ奥さまの側に居て見守ることしかできませんでした。

奥さまはひとしきり泣いた後、少し落ち着いたようで、
まだ充血した目のまま私たちに笑顔を向けました。

「まだ何も考えられないけど、これからは故郷でのんびりやっていこうと思います。」
「主人が元気なころから、できれば子供は田舎で育てたいね、と話していたの。」

そして「東京にいると事故のことを思い出して辛いから」と呟きました。
それから私たちの目を真っ直ぐ見つめて、
「もし看護師さんが付き添ってくれなかったら、私たちは故郷に帰れなかったと思う。
いろいろ助けていただいてありがとうございます。」
と感謝の言葉を述べてくました。

それを聞いた時、
「船旅の最後まで、私たちがこのご夫婦を支えてあげなくてはいけない」
との思いを改めて強くしたのでした。

6. 故郷の人々の出迎え

3日目の午後4時の予定時刻に船が沖縄の那覇港に入ると、
すでにご両親やご兄弟、友人など大勢の方々がお二人の到着を待っていました。

ストレッチャーに乗せられたご主人と、側に寄り添うように歩く奥さまが姿を現すと、
お迎えの方々は二人を取り囲むように集まってきました。

下船後の奥様は、顔に微笑すら浮かべて気丈に振舞っていました。
お出迎えの皆さんに対して何度も頭を下げては、
「これからお世話になります。宜しくお願いします、お願いします。」
と繰り返していました。

「本当に大変だったねぇ。あなたは大丈夫ね?」
「大変なときは息子さんを預かってあげるからさぁ、いつでも連れておいでよぉ。」
故郷の皆さんは次々と奥さまにやさしい言葉を掛け、
困難な境遇に陥ったご夫婦を温かく受け入れていました。

その後、私たちは介護タクシーで転院先の病院までご主人を搬送し、
病棟のスタッフへの申し送りを行いました。
そこでやっと肩の荷が下りたような気持ちになりました。

最後にご主人の新しい病室に出向いて、奥さまへお別れの挨拶を行ないました。

「ここまで辿り着くまでに、お互いくたびれちゃったわね。
でも私はこれからも頑張らなくちゃ。みんなが支えてくれるから大丈夫よ。」
奥さまは決意に満ちた眼差しで、しっかりと前を向いていました。

私たちはその日のうちに飛行機で東京へトンボ帰りしました。
どんどん遠く小さくなっていく沖縄本島を眺めながら、3日間を振り返って
「私たちは、あのご家族が故郷で新生活をスタートするために必要なお手伝いを、
ほんの少しだけだったけど、してあげられたのかな。」と思ったのでした。

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